heven'skitchen |
泥の上に置いてあるひまわりはは、いったい誰のものか。
料理の間は夢想に沈む癖がある。
今日もそういう日で、琥珀は手を動かしながらも、頭はどこか遠くへ飛んでいた。
「琥珀さん」
どこか遠くで、誰かが呼ぶ声がする。
「琥珀さん」
聴こえているのだけど、どこか遠い。
「琥珀さん!」
琥珀を呼ぶ声は強くなって、現実味を帯びてきたので、振り返る。
「はあい……あ、志貴さん」
「琥珀さん、どうしたの?」
「え、どうしたのって?」
にっこり笑って、琥珀は首を傾ける。志貴はなんだか不安そうな顔をしているのだけど、何か心配させることでもあったかしら。
「琥珀さん……えび」
「えび、って?」
志貴は困ったような、呆れたような顔をして、琥珀の手元を指さした。
手元には。
「あら、まあ」
殻どころか、身まで分断されたえびの身。
「困りましたね」
「困ったじゃないよ、琥珀さん。大丈夫?」
「あはは、大丈夫ですよ、志貴さん。でも、これはお料理には使えませんね」
笑いながら琥珀は、分断されたえびの身にまだ残っていた殻を全て取り、
「志貴さん、口開けてください。あーん」
「え」
「あーん」
琥珀のその言葉につられて、志貴は口を開ける。
すぐに、口の中にはぷりぷりとして、透明感のある、しかし少し生臭いものが入り込んできた。
「内緒ですよ、志貴さん」
そういう琥珀の口の中にも、えびの身が入っている。
「内緒って」
「つまみ食い」
ごくん。志貴はえびの身を飲み込んだ。そしてそのすぐ後に、真っ赤になった。
「それにね」
琥珀は指を立てて、怒るふりをする。
「志貴さん、いつもあまり食べないでしょう。ちゃんと食べなくちゃだめですよ」
「え、食べてるよ……」
「いいえ食べてません!」
そこで、琥珀はにっこり笑って
「だから、今日は志貴さんの好きなものにしましたから、ちゃんと食べてくださいね」
うん。すまなそうな顔をした後、
「ありがとう」
にっこり笑って台所から志貴は出て行った。
琥珀もにっこり笑った。
琥珀は料理に熱中する。とくに、えびの殻向きに。
先ほどまで志貴に見せていた笑顔を脱ぎ捨てて。
台所には、えびの殻が散乱しており、琥珀はそれの一つを手に取り、眺めた。
殻。
脱ぎ捨てた殻。
そういえば、と琥珀は思う。私の脱ぎ捨てた殻はどこに行ったのだろう。
脱ぎ捨てた殻?
そんなものは無い。
昔から、自分はこの自分ではなかったか。
志貴や秋葉と遊んでいた自分。翡翠は大人しくて、自分がどうにかしないと、何も出来ない。
いや――。
何か嫌なものが、それは記憶か。
いいや違う。
私にはそんな嫌な記憶なんて無い。琥珀は頭を振って、その考えを打ち消した。その代わりに、料理に再び熱中していく。
しかし、怖くてしょうがない。
怖いその考えを打ち消したくて、琥珀は料理に没頭しようとするのに、手作業だけで他がお留守なのか、えびの殻むきをしても、先ほどの考えに頭が行ってしまう。
ふと、思う。
今琥珀はえびの殻をむいている。料理をしている。
怖い考え。
それに、薬を混ぜることもできるけれども。
嫌なこと。
遠野の人たちは、その考えに至らないのだろうか。
琥珀はぶるりと身を震わせる。
自分だったら、怖くて食べるものを他人に任せることはできない。
信頼、だろうか。いいや、それは違う。きっと、それ以前のものだ。鈍感か、それとも無知か、知らないようにしているのか。
そのことに気づいたら、遠野の人たちは、琥珀の食べ物を口に出来るだろうか。
「あ」
思い出す。
遠い記憶。
思い出したくないのに、過去の記憶はぐるぐると琥珀の頭の中を回り始める。
恐怖、不安。そんなものが、琥珀の心を追い詰めていく。
そして、また別の思考が頭をよぎる。
自分が泥の底にいて、他人の足を引っ張り、泥の中に引き釣り込もうとしている。そんなイメージ。
どうして、そんなことを思いついたのだろう。不安になると、それが別の形をともなって、琥珀の心に影を落とす。それなのかもしれない。
なんだか、おかしくてしょうがない。
自分はもう、泥の底に落ちきって、誰も必要としていないはずなのに、まだ人を、貶めようとしているのか。
泥の上にいられないことを、琥珀は少しだけ悲しく思い、果ても見えない泥の底で誰を待ち構えているのか。
それは――。
ふと、腹部が痛くなった。
琥珀は、割烹着の上からその場所を押さえる。
押しつぶされそうな痛みだ。
刺されたのでもなく、切られたのでもない。
「い、た……」
痛みに耐えかねて、琥珀はさらに、そこをぎゅうっと押さえる。痛みに対抗するものは、痛みであるかのように。
手を離すと、割烹着にじんわりと、青いのか赤黒いのか、それが混ざっているのか、染みができていた。
汚れてしまった。
琥珀はふとそう思う。
そう思った瞬間に、痛みはさらにやってくる。
痛い。
痛くてしょうがない。
うずくまる。
じんわりと、そして押しつぶしてきそうな鈍い痛み。
我慢できない。
助けて。
そう叫ぼうとしたが、できなかった。
そして、そう叫ぼうとしたのが可笑しかったのか、琥珀は喉からくぐもった笑い声を出した。
苦しくて、笑い声なんて出したら、もっとそこは痛くなりそうなのに、口から出てくるのは、笑う言葉しか無い。可笑しくて可笑しくてしょうがない。
うずくまった先は、冷たいフローリングの床。
冷たいその感触が、とても気持ち悪くてしょうがない。
痛みに耐えかねて、琥珀は瞳を閉じた。
気づけば痛くなくなっていた。
どうしてだろう。
床は冷たくて、そこから昇ってくる冷たさは琥珀を冷やしていた。体がとても冷えているはずだ。
しかし、右手だけは温かかった。
どうしてだろう。そう思って、琥珀は手の先を見た。
すると、志貴が、困ったような不安そうな顔で、琥珀の手を握っていた。
「大丈夫?」
真っ青な顔で、志貴は琥珀にそう問いただす。そしてもう一回。
「大丈夫?」
そしてさらに真っ青な顔で、あたりをおろおろと見回すと、
「そうだ、翡翠を」
琥珀は、手を離して立ちあがろとする志貴の手をくい、と引っ張り、そしてさらにぎゅっと握った。
「大丈夫ですよ。もう痛くなくなりました」
琥珀は、今作れる精一杯の笑顔で、志貴に言う。
「本当?」
「ええ、大丈夫」
本当は、まだとても痛くてしょうがない。
だけども、琥珀は志貴に悟られないように、痛みをこらえて、冷たいフローリングから起き上がった。
志貴が、琥珀の身体を引っ張り上げる。琥珀に無理が無いように。それが、嬉しくて、握っている手が暖かくて、琥珀は微かに笑った。
「大丈夫? 大丈夫?」
それよりも、自分の不健康さや、今の顔色を心配すべきだと思うのに、志貴は何度も琥珀にそう聞いてくる。
「大丈夫ですよ、志貴さん。心配性ですね」
椅子に座らせてもらい、琥珀は袂を口元に持っていき、笑う。
やっぱり、まだ腹部は痛い。こうして起き上がっているのも、まだ辛いくらいだ。さっきよりは、痛くは無いけれど、それでも何度も鈍痛を感じる。
でも、さっきよりは、全然痛くはなくて。
大丈夫? と何度も問い掛ける志貴の手を、琥珀は再び、そっと握りなおした。温かさを確かめるように。いることを、確かめるかのように。
志貴はまだ不安そうな顔をして、やっぱり翡翠を呼ぼうかと何度も言うけれど、心配ないです、大丈夫ですよ志貴さん、そう言って台所から無理やり追い出した。
やっぱりまだ腹部は痛くて、立ち上がろうとすると、琥珀はよろめいた。シンクに手をつく。
目に入ったのはえびの殻。
青い卵と赤黒い体液。
そして、不安、恐怖、痛い過去。
最後に浮かぶのは、不安そうな志貴の顔。
「ああ、今日は薬を盛るのを止めにしましょう」
本当はずっとずっと永遠に、そうするのを止めたいのだけれども、それはきっと絶対にできないので、今日だけ。特別に。
「ごめんなさい」
それは自分で決めたこと。後悔はしないと決めたこと。
そのはずなのに。
「ごめんなさい」
だいぶ痛みは引いたのに、また立っていられなくなるほど痛くて。
「もう、止められません」
止める方法は一つだけ。
泥の中の自分が脳裏によみがえる。
手は誰をつかもうとしているのだろう。
先ほどは、顔は見えなかった。
ゆっくり視線を上げていく。
それは。
まごうことなき自分だった。
前に作った月姫本から琥珀さんの話。完売したのでこちらに移しました。
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